神戸の古着屋「ハバダッシェリー(haberdashery)のコラムです。
過去の日記から抜粋してみました。勝手な考えで勝手なことを書いてますが「こんな奴が居るんやな〜程度に読んでみてくださいね★

アメリカで想う事・・・2006年2月27日
何故テストは「○」と「×」あとあっても「△」なんやろ??

そのテストや授業中真面目に聞いていたら○×△で評価しなくってもいいんじゃないかな

??小学校の算数の簡単な物以外大人になって使いましたか??

テストにしても全国の小学生が大体その時期になったら100点目指してテストをうけるので

しょ〜!結局100点満点中アナタは??点ーと言う評価をするのでしょう。

30点でもその個人にとって十分な点数かも知れないのに30点は「アホ」あつかいでしょう〜

!僕の高校の美術の評価は、「1」ばっかりでギリギリ(多分温情で)進級していました。で

も・・僕現役で大阪芸大に行ったのです。当然画塾などには通っていません。高校の頃は

美術も好きだったからサボらなかったし・・・でも「1」・・。

教師がその生徒を「いい子」と思ったら好成績、「悪い子」は「1」!!ーってハッキリ言って

くれればそれはそれでいいのですが・・子供の評価によってその子の将来が変わってくるはず

の物を○×△・・はいアナタは50点・・ちょっと「アホ」・・じゃあないでしょう。。。

僕は、通知簿での先生の主観での「アバウト」な評価はあってもイイと思いますがテスト=

順位=あんた天才おれアホ・・の構図はおかしいと思うのです。

僕が美術を得意と思っていたのは小学生の1年2年の担任と図工の先生のせいだと思いま

す。

何故かだれも書いていないのに僕だけ「絵日記」をつけさされて・・図工の時間以外にもな

ぜか僕だけ絵を描かされていました。−で・・なぜかコンクールなんかに提出なぜか金賞とか

貰っていました。勉強については・・・「アホ」でした。

でもだから大きくなって「芸大」に行こうと思ったし得意な物として育ててもらったのだと思いま

す。

子供にとって何が必要か・・何が子供を強くするかーなんて全く解らないですが・・大きく言

うと「愛情」なのではないでしょうか??

僕は高校に上がるまで「戸塚ヨットスクール」(みんな知らんわな〜!)顔まけのスパルタスイ

ミングスクールに通っていました。

殴られて流血ぐらい日常茶飯事、頭が割れて大流血や救急車出動ーなんて事もありまし

た。でも・・そのコーチ・・誰からも恨まれていないし僕も大好きです。(当時はさすがに「鬼」

と思っていましたが・・)今思うと本当に子供を愛する気持ちを持った人だったと思います。

体罰はいけないと思います。でも愛情を持った体罰は・・いいんじゃないでしょうか??

小学生高学年の頃・・・校庭の池のコイを手づかみで取って・・授業が始まる時に教室に

持って行って先生に「先生!コイツ(鯉)授業受けたがってるみたいやで!!」って悪戯し

たのです。−で・・先生は・・「はよ帰してきい!」−と怒っただけ・・。後で「魚臭い奴前に

出ろ!!」と言われ前に出たら「コチョコチョの刑」ーと言ってこそばされて・・おしまい。

多分「悪戯」の質が可愛かったのでしょうが・・・細かく言うと痛くないだけで「体罰」でしょう

〜!!でも・・いい思い出だしその先生(亡くなったそうですが)大好きでした。

子供の頃の僕は考え付く悪戯をぜ〜んぶやって生きていました。

ーで、スイミングスクールではシバキまわされる・・・。こんな毎日でも子供は「愛情」を感じて

育っていたのです。

僕は勉強はサホド出来た方ではないです。でも大人になって「勉強」が出来なかったからー

って何も不自由していないです。

小さい頃に勉強(テストの問題で正解する事)を教える前に「勉強」−ってなんだろね??

−って言う勉強を教えて欲しかったです。

間にはテストでいい点数を取るより大事な事がイッパイあるんだよ!!−って事を・・。先人

の知恵が勉強で世界のすべての知識を憶える事は不可能なので何が必要かー何が不必

要か・・−って事を・・・。

今・・あ!勉強しておけば良かったーと思うのは・・・

社会科、英語、国語・・・ですね〜!だって普通の生活の中で「因数分解」している人は

「変態」やし会話の中に「国敗れて山河あり」なんて言われたらビビル!!(笑えるけど

・・)古文についても昔の人が書いた「内容」が大事で古い文法・・ぜ〜ったいいらないもん

!!なんかへんな「なんじゃら活用」とか憶えなかった??意味ないじゃん!!

特に小学校では(僕は)学問より人間形成に重きを置くべきではないでしょうか??

人間的にいけている子は、100点!!愛情をもった教師の主観でいいと思うのです。

たまに「この子は悪戯しすぎやからー50点!!」とか・・−で親に書く欄に「これこれこんな

悪戯しました」−なんて・・・。ーでいけてる「親」は偉いーっていってくれるのです。それならき

っと僕は「悪戯っ子」だったけどいけていたから「1000点」やったのにな〜!!

評価の基準が難しいからテストをするーー評価の基準はいるのでしょうか??

その基準での評価が何の役にたつのでしょうか??

朝礼で右向け右!!の練習をしてみんないっせいに出来る事が意味があるのでしょうか

??それより「右向け右」と言われて「ピョン!!」って跳ねる子の方を「デカシタ!」と褒め

て上げることは難しいのでしょうか??(多分僕は一回じゃなくって「ピョンピョン」跳ねる子

だったのでしょう)

でも・・だから今特別な大人として出来ているのかも知れなくってこれが普通ならこの仕事

出来ていないかもしれないですが・・・。

今、僕の毎日が幸せで日々や周りに感謝して生きてゆけるーって事は僕の育ちが正解で

はないでしょうか??そんなに恵まれた育ちじゃないと思います。ただオッキナ愛情を持った

「大人」が周りに少しだけ居たから・・じゃないでしょうか??

僕はマダマダ僕の考える「大人」に成りきれていません。

でも・・それが「大人」って事なのかも??−とスコ〜シ考えています。

いつか僕も「オッキナ愛情」を持った大人になれるように頑張ります。

・・・長かった??


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